楽園喪失

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GHOST IN THE SHELLからのイノセンス観たぜ

先日観たGHOST IN THE SHELLの続編、イノセンスを観たので感想。

攻殻機動隊シリーズも押井守作品もこれら以外は観たことが無く、シリーズや監督の全作品を通したテーマ等を知らず、かつ1回しか視聴していない上に今まで推しの自我とか個についてモチャリモチャリしてきた人の感想のため、本来そういう見方じゃないよお前の価値観だろうが!という部分もあるかと思いますがご容赦ください。


さて


「少なくとも今の私に葛藤は存在しないわ」のところ、GHOST IN THE SHELLの時の100%少佐はもういないんだなと思った

バトーを連れた海ダイビングの時の少佐の、「色々な制約によって私という個が留められてる」という旨のあのセリフが多分、個人とは?の疑問に対する一つの正解だったのではと思うんだけど(でも迷いの中でのセリフということなので、実はそういうばかりでは無いという演出だったりもするのかな~?)、そうすると、もう葛藤が無いときっぱり言い切ったことで、やっぱり元々いた少佐はいなくなってしまったんだな~という哀しみがある

 

GHOST IN THE SHELLの終盤で少佐が人形使いに「私は私でいられるのか」ということを聞いた時、「どう変わるかは分からない・でもお互いを認識は出来ないと思う・ちょっと変わったとしても個人としてはさして支障はないだろう」という内容の回答を人形使いは返したけれど、固定の身体を失った/捨てたからばかりではなく、この辺の「人形使いらしさ」が葛藤は存在しないところに繋がっているんだろうな

 

例えばもし何かがあって、少佐だけがネットのどこでもいける存在になった場合だったら今後も葛藤して生きていったし、いくらネットのどこからでもバトーを認識できるとしても、バトーからも確定で認識できる方法をとったのではと思うよね

 

でも、そもそも「個」というものについて、人は変わっていくものだし、作品としても個人や自我というのはかなり曖昧で不確実で不固定ですよねというのがテーマだと思うので、融合後の少佐は単に考え方が変わっただけというのもそうよね
~~という気持ち

 

また、イノセンスで、少佐を喪ってあの時と比べたら確実に変化があるバトーに対して、少佐が「変わってない」と称したように、個人というのはどこかが変わっても変わらない部分や、元の部分があるからこその変化もあるので、会話や共に行動したり、そこに見る側の希望も入って総合的に見て初めて、個人・個・自我を認識できるのではないかと思うよね

 

個や自我を保証するのは他人なのかもしれないというか、実際、人であるならば「どういう人間かを特定したり定義する」という見方で言うと保証するのは他人だと思っている
いや~どうだろ???
わかんね ヘヘッ

 

でもそれはそれとして好きなオンナが離れているうちに変わっちゃったりそばにいてくれないのは寂しいよなぁ!?
なあバトー!

人形使いと融合してネットや体を移動して変わったけど、広く見た時に少佐と言う人はいなくなっていないとかそういうことじゃねえよなぁ!
もっと相談したりして欲しかったし、助けになりたかったよなあ

 

「人間らしく」というものも作中では曖昧というか、よく言われる「情緒的であること=人間らしさ」とは一概に言えないのでアレなんですが、バトーは「身近な人間のように」、悩み、不安を晴らそうと真実を明かしたがる少佐が好きだったのかな
少佐はバトーを「変わってない」と称したけど、バトーには少佐がどう映ったんだろうな

これ以降の作品めちゃくちゃあるみたいなので全然明後日の感想かもですけども

 

ところでGHOST IN THE SHELLのゴミ収集員の人、もう消せない架空の家族の記憶を忘れようとしたけど忘れられない中で、誰かよくできた人と出会って、自分の中では本当にいた家族として、よい記憶にしていこうと努力したり滑稽さに虚しくなったり綺麗ごとを恨んだりしながら生きていく話見たいけど実際当時そういう同人誌ありそうだな

 

さらば